


5月初めに日本を発ってから、いつしか暦は変わり7月を迎えていた。束の間の時は、無慈悲にも私に旅の終わりを告げるようになっていた。出発前の予定ではカザ近くの国際空港からロイヤル・エア・モロッコの飛行機でパリまで帰るはずであったがチケットがとれず、やむなくスペインに船でわたり、列車でパリに戻ることにした。
この国の猥雑なところが私にとって魅力でもあり、また嫌悪するところでもあった。どこに行ってもつきまとう、赤い砂の微粒子。毎朝早く、近くのモスクのスピーカーから聞こえてくるコーランを読む声。何処までも果てしなく続く無人の赤い荒野。そこにかすかに生えているいじけたサボテン。スークの喧噪、なぞめいた臭い。そのすべてがモロッコであった。たまに腹立たしく、ある時は薄気味わるく、私の周りに吹いていた風はいつの間にか無愛想になっていた。7月になった途端、急に暑い本格的な夏が来たように感じた。つい半月前には寒さに震えながら、マラケシュでフォルク・ローレを見たことなど嘘のようであった。

私の肉体も疲労の色を隠せなかった。かなり消耗している事を実感してきた。アトラスを越えるルートを避け、弟の運転する車で海岸周りのルートをとりマラケシュ、カザに向かった。タルダントを発つ寸前立ち寄った、アガディールの水産会社で読む数日遅れの日本の新聞では、相変わらず様々な事件の多さを伝えていた。そういう日本であっても一刻も早く帰りたいという疲れた私と、そんな国には帰りたくない、まだまだこの国に残りたいという、かすかな好奇心の残った私が混在していた。
1976年7月2日、カザを午前7時55分に出る特急にのりこんだ。白い町は朝日を浴びて、今日もまた暑い一日の始まることを告げていた。
スペインのアルヘシーラスに着いたのはその日の夕暮れであった。モロッコに入る時のフェリーの様子はかなり印象に残っているが、帰りのフェリーではあまり印象に残ったものがない。ただ甲板で文庫本を読んでいる私に、あるモロッコの若者が(ドイツに留学していると言っていたなー)私の仕事を尋ね、印刷と答えたがなかなか理解してもらえなかった。プリンティングという言葉が通じなかったが、ジャーナリストかと聞かれた。もうどうでも良かったので適当に答えていた。ヨーロッパを回っていたとき、このフェリーでものを買うときには、コインに気を付けるように注意をされていた。スペインの1ペセタの黄銅貨とモロッコの1DHは一目見るとそっくりである。しかしスペインの1ペセタは約5円、モロッコの1DHは約70円で14倍の差がある。モロッコ通貨で支払い、おつりをスペイン硬貨でもらってしまった。この頃になるとどこか無気力になっていた。
アルヘシーラスでは以前泊まったペンションは満室であった。そこで別な宿泊場所を紹介してもらった。何というところかも今は全く記憶にない。電話でそこの女主人を呼んでくれ、彼女について行き一夜の宿を得た。ドーチャがシャワーを意味するスペイン語であることが分かった事、それの付いた部屋を頼んだ事、部屋の番号が42番だった事、蒸し暑く、寝苦しい疲れた私の耳に、どこからか流れてくるフラメンコギターのもの悲しい音色が聞こえていた事ははっきり覚えている。モロッコからスペインに戻ったのだなー。そんなことを考えながら何時しか眠りについていた。

サフィーの古城
旅の終わりに
ヨーロッパで帰りに乗る列車は、ユーレイルパスのない身なのですべて2等車であった。日本ではあたり前の、しきりのないオムニバス列車にも初めてのった。同席の陽気な農夫たちにワインを勧められた。マドリッドに着いたのも翌日の夕暮れというよりは夜中に近い頃であった。駅に近い少し高級なホテルに泊まった。ボーイが荷物を運んでくれるのでチップが必要であった。
翌日マドリッドの駅でパリ行きの夜行列車の予約をした。多分午後8時頃でる列車だった。昼間はJALのオフィスに私宛の手紙を受け取りにいったり、ノミの市では壊れた自動巻のセイコーの時計をそれまで使っていた時計と交代に腕につけ、さも常時使用しているかの振りをして、詐欺師まがいにロンジンの懐中時計と物々交換に成功した。(帰ってからもある程度正確に時を刻んでいたが、馬鹿な私がある日油をさしたら止まってしまった)
夕暮れになり、列車の出発まで時間があるので駅の近くの食堂で「最後のパエジャ」を一人で食べた。列車のコンパートメントはマジョリカ島でバカンスを過ごしてきたという、カナダのブリティッシュ・コロンビアからきた女子大生たちと一緒になった。私はずっと二等車であったが、列車がフランスに入る前に車両の乗り換えになると彼女達は一等車に移っていった。前夜列車に乗ってからずっと乗りっぱなしだった為に、フランスに入ってからは居眠りばかりしていた。パリに着いたのは夕暮れ時であった。偶然にも翌日セーヌ川の近くで彼女たちと再開した。しばらく文通していたけれどいつの間にか途絶えてしまった。
羽田に着いたのは7月7日であった。蒸し暑い空気、大勢の人の出入りする電車。帰った瞬間、私の旅は遠い彼方に飛び去ってしまった。想い出の消えない間に、地図を片手にメモと照らし合わせながら、日記風に一つの文章にまとめた。その頃はまだ父も健在で、今は30歳になる息子も、まだ生後1年の幼い乳児であった。このページを作るにあたって、当時書き残した文章をたどりながら、記憶を呼び起こし、なんとか体裁だけは繕ったが、記憶は鮮明に残っているものもあれば、自分で書いておきながら、すっかり忘れてしまったものもあった。
日本に帰ってからも約一ヶ月は寝ると必ず向こうにいる夢ばかり見ていた。目覚めてベッドにいるはずの自分が、畳の上にいる事に気が付くには数秒間の誤差があった。
この当時、ヨーロッパで私が驚いたことの一つに、大都会では歩行者のほとんどが交通信号を守っていなかったことがある。まだ日本では赤信号であれば車が来なくても愚直なまでに歩行者は信号が変わるまで待っていたような気がする。頭は良いのだろうけれど軽薄で馬鹿なだれかが「赤信号みんなで渡れば恐くない」などという言葉を流行らせたせいだろうか。勿論すべてのヨーロッパ人が交通信号を無視していた訳ではないが、赤信号でも車の間を横切る人が多かった。今、日本でもかなりの歩行者が赤信号でも車が無ければ平気で渡っている。信号無視などの罪悪感は微塵も感じられない。そういう風潮になった事を知ったとき、私は愚かにもようやく日本も欧米化した、と思っていた。
これは私の大きな誤りだった。愚直さは日本人の美徳ではなかったのだろうかと思うようになってきた。あらゆる事でそれを痛感する。
従来様々な文化、道具、システムの持つ利便性の十のうち一つや二つマイナス的要素があっても他のプラスの面でそれを補ってきた。だがもはやそういう時代ではなくなってきたのではないだろうか。欲望をすて、十のうち一つでもマイナスの面があればそれ全体を否定しなければ、日本はますます非道い国になっていくだろう。毎日、テレビ・新聞で異様な記事が伝わってくるたびに思う。
この国は病んでいる。
帰った私は感覚の失われる前に記録を残し始めた。
日の長き、夏ともなれば、
君は歌の心をさとらん
秋が来て、木の葉黄ばめば
筆取りて、そを書きしるせ
−ルーイス・キャロル− 「鏡の国のアリス」より
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